「日本でお茶を広めた人は?」と聞かれて、多くの方が思い浮かべるのは千利休ではないでしょうか。
言わずと知れた茶人で、日本で「侘び茶」というお茶の形式を確立させ、「茶聖」とまで呼ばれた偉人です。
さらに信長や秀吉といった歴史上の権力者からも信頼を勝ち取り、政治的にも影響力を持ちつつ、乱世における癒しの場として茶会の開催や茶室の創作といった「和の空間作り」においても活躍しました。
まさにこれまでの日本文化に大きな影響を与えた千利休。
この記事では、千利休という人物や彼の知られざるエピソードにインタビュー形式で触れながら、侘び茶や茶の湯の歴史を一緒に紐解いていこうと思います。
本名は田中与四郎!千利休は堺の魚問屋の息子だった
ー本日のインタビューを楽しみにしていました!よろしくお願い致します。
千利休:よろしくお願いします。私は千利休、本名は田中与四郎と言います。1522年生まれです。
ーえっ、いきなり驚きです!まさかの田中さんだったんですね。なんかさっそく親近感が。ご出身はどちらですか?
千利休:
和泉の国(大阪)の堺という場所です。父は田中与兵衛といい、商人で魚問屋をやっていました。魚問屋というのは現在の倉庫業です。
ー関西出身!堺は商人の町として栄えていたと聞いたことがあります。
千利休:当時の堺は貿易でかなり栄えていました。大名が権力をもって統治するのが当たり前な戦国時代にもかかわらず、商人が実権を握っていた数少ない商業都市です。今でいう独立国家的なイメージでしょうか。
ーご実家が商人というのは意外です!ではお茶は何がきっかけで出会ったのでしょうか?
千利休:本格的に茶の湯を習い始めたのは17歳ごろからです。祖父である田中千阿弥は室町幕府8代将軍の足利義政さんのお茶友達だったため、お茶の文化に触れる機会は割と多かったかもしれません。
18歳からは跡取りとして家業を継ぐにあたり、品位や教養を身につけるため、当時のお茶の第一人者である武野紹鴎さんの弟子になり、本格的に茶の湯の勉強を始めました。22歳で初めて茶会を開催し、無事成功させた時はかなり嬉しかったです。
51歳にして転機到来!織田信長との出会い
ー「天下一の茶人」になるまで、何か転機はあったのでしょうか。
千利休:そうですね〜。私が51歳の時に、信長さんと出会ったことでしょうか。天下統一を目指す信長さんが商業の中心地であった堺に目をつけ、直轄地にしました。
武力や政治だけでなく文化にも興味を持っていた信長さんは、私を茶頭に任命してくださいました。茶頭とは茶会を開く時に準備や場を取り仕切る役割です。つまり茶の湯の師匠的な立ち位置です。これは私が堺に生まれていたからこそだとも言えるので、信長さんにも両親にも感謝です。
ーまさに運命の出会いですね!織田信長は茶の湯が好きだったんですか?
千利休:信長さんは茶の湯をとても大切にし、家臣にも勧めていました。お茶を通して、戦しかしない人にも教養や礼儀作法を身につけてほしかったようです。
また権力を見せつけるために全国の高価な名茶器を買い集め、それを他の大名や家臣に贈られていました。信長さんが茶の湯に興味を持っていただけたのをきっかけに、その師匠の役割として私の地位も自然と上がっていきました。
ーすごい!人生何が起こるかわからないですね。しかし織田信長は本能寺で、、
千利休:その事件の当日は信長さんが全国の名茶器を集めて、大規模な茶会を催す日でした。場所は事件が起こった本能寺です。
このタイミングを狙い、家臣の明智光秀は謀反。高級茶器と共に、信長さんは炎に包まれました。私が60歳の時ですが、あの時の衝撃は今でも忘れられません。
茶の湯が政治の表舞台へ。天皇から名前を授かり「千利休」に!
ー織田信長の死後はどうされたんですか?
千利休:後継者の豊臣秀吉さんに仕えることになりました。秀吉さんは信長さん以上に熱心に茶の湯に取り組まれていました。
ー織田信長に続き、すごいですね!特に印象深い出来事はありますか?
千利休:1585年の私が63歳の時、秀吉さんが天皇から関白を命じられたお返しにお茶を点てる「禁中献茶」という行事がありました。
なんと私に行事を取り仕切る役を命じていただき、無事成功させることができたのです。そして天皇から「千利休」という名前を贈っていただき、「天下一の茶人」とまでいっていただけるようになりました。
ー千利休という名前は天皇から頂いた名前だったんですね!秀吉といえば豪華絢爛、金の茶室のイメージがあります!
千利休:あの有名な黄金の茶室の設計には私が携わりました。また本能寺で多くの高級茶器が失われてしまったため、積極的に鑑定し名茶器の選別を行いました。
「天下一の茶人に鑑定してもらいたい」ということで評判になり、茶の湯好きの武将も次々と弟子入りしてくれました。さすがに「秀吉に意見できるものは利休しかいない」とまで言われた時は恐縮でした。汗
「平等に純粋にお茶を楽しむ」侘び茶に込められた利休の思い
ーまさにお茶で天下を取ったわけですね!一般人まで巻き込んだ、前例のない「北野大茶湯」の成功もすごいです。
この頃が私の茶の湯の歴史でピークといえるかもしれません。公家や武士など身分に関係なく、農民や百姓でも茶碗一つで参加できるという前代未聞の大茶会を開催し成功させることができました。
私が確立した茶の湯の「侘び茶」という様式において、茶会は「平等に純粋にお茶を楽しむ場」であるべきと考えています。この「北野大茶湯」では自分の理想を少し形にすることができました。
席は800席を超えるほどの規模になり、少々大変ではありましたが、後々国民行事にもなるなど世代を超えて楽しんでいただけていて、非常に感激です。
ー素晴らしすぎます!実際に茶室等の作成にも携わることはあったのですか?
私が生きているうちに作ったのは、山崎城近くの「妙喜庵」という寺院のある茶室のみです。日本最古で国宝に指定されている茶室です。他の茶室も図面等は作りましたが、多くは私の死後に作られました。
ー完成を見ることができなかったのは少し寂しいですね。茶室を作る上での「こだわり」等はあるのでしょうか?
一番のこだわりはお茶室の入り口である「にじり口」をあえて小さくしたことです。入り口が狭いと武士も刀を置き、頭を下げて入らざるを得ない。茶室内では立場の上下をなくすという意味を込めました。とにかく身分に関係なく、平等に純粋にお茶を楽しむ。このことを常に意識していました。[/word_balloon]
ーなるほど!では利休さんにとって、「侘び茶」とはどういったものなのでしょうか。
一言で言ってしまえば、「もてなしの時間と空間」です。身分関係なく楽しめるもの。恐縮ではありますが、これまでの常識であった「派手でお金をかけた名物が良い」「高級貴族や武士のみのたしなみ」という価値観を否定させていただきました。私の道具は豪華な飾り等もなく、シンプルで高価ではないものがほとんどです。
後の人間が「茶の湯は初めて客として訪れ、共に茶を喫して退出するまでの全てを一期一会の充実した時間とする総合芸術」※1と表現していますが、まさにその通りだと思っています。
※1 引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/千利休
利休の死因はまさかの切腹!最期までお茶とともに生き抜いた人生
ー豊臣秀吉とは後に関係が悪化すると聞きました。
政治面でも地位が高まりつつあった私に、権力が偏ることを恐れていたようです。豊臣政権の中でも弾圧の声が上がり始めました。秀吉さんもさらなる利益や権力を増やすため、地元堺の税を引き上げる、堀を埋めるなど圧力を加え始めました。私は堺の権力を守ろうと尽力したため、関係が悪化し始めたのです。
またその頃の秀吉さんは、茶の湯を権力の道具として扱い始めたように感じました。私の侘び茶に対する価値観の違いから、さらに溝が深まりました。他にも色々な要因があるため、あえてここでの明言は避けますが、最終的には切腹を命じられました。
ーそんな。これまで一緒に活躍してきたのに。
これは仕方のないことです。切腹を伝えに来た使者に、私は「お茶の準備ができております」と伝え、お茶を出しました。最後まで「侘び茶」のもてなしの心を忘れずにいることができ、やり残したことはないなと感じました。
最期は湯が沸く音を聞きながら切腹することができて、自分の生き方を誇りに思いました。69年間、長いようであっという間でしたが、今振り返ると悔いのない人生だったと思います。
ー最期まで侘び茶の信念を貫かれたのですね。グッとくるものがあります。
本来は農民や商人は切腹ではなく処刑です。商人の私に切腹が許されたのは、秀吉さんに武士階級の人間として認めてもらえていた証拠でもあります。
また晩年の秀吉さんは、私と同じ作法で食事をとったり、私好みの茶室を作らせたとの話も聞いています。私が亡き後まで敬意を持っていただき、嬉しい限りです。
「おもてなしのこころ」は千利休が教えてくれた
日本文化に大きな影響を与えた人物、千利休。彼が確立した茶の湯の様式「侘び茶」は現代まで残り、国内外の多くの人に、今もなお楽しまれています。
日本人の「おもてなしのこころ」は千利休が伝えてくれたのかもしれません。
そして時は流れ、令和元年。「現代の千利休」を目指す会社が「株式会社 千休」です。
かつての「千利休の茶室」のような「癒しの場」を日本と世界に作る。そう決意して社名は千利休から2文字を取り、「千休」に決めました。
千休の抹茶ラテを飲む時は、ぜひ千利休の人柄や歴史を感じながらお召し上がりください。