2010年に始まった世界のMATCHAブーム。
もともと日本の抹茶には定評があったものの、表記が日本語と同じ「MATCHA」となり、さらに人気に火がつきました。
抹茶は日本の誇れる文化の一つと言っても過言ではありませんが、実は、今の抹茶文化が浸透するまで、かなり長い年月がかかりました。
この記事では
- 日本での抹茶の歴史
- ここまで発展し続けた抹茶の飲み方
を詳しくご紹介します。
抹茶のはじまりは中国からの伝来
日本の抹茶の歴史は、805年に中国から輸入されてきたところから始まりました。
「MATCHA」という言葉が世界中で広まっている様子をみると、日本で生まれたと思う方も多いかもしれませんが、実はお隣の国・中国発祥だったのです。
そして、現在の抹茶に至るまで、さまざまな人物が抹茶文化を日本に根付かせようと努力を重ねてきました。しかし、なんども途中で挫折する場面が訪れていたのです。
日本のお茶文化のはじまりは平安時代初期
平安時代の初期に「天台宗」と「真言宗」で有名な遣唐使の最澄と空海らが、唐(中国)からお茶を日本に持ってきたのが日本の茶文化のはじまりと言われています。
当時のお茶は非常に貴重な飲み物だったため、僧侶や貴族などごく一部の身分の人たちだけが口にすることができたといいます。
さらに、お茶を栽培することはできないかと考え、延暦寺のある比叡山のふもとに栽培していたという記録もあります。
しかし、一部の人しか飲めなかったり、遣唐史も廃止されたりしたことにより栽培は長くは続かなかったようで、お茶の栽培の発展はもっと先になりました。
「抹茶法」が成立した鎌倉時代
鎌倉時代、臨済宗の開祖である栄西は、修業先であった宋(中国)からお茶の種子を持ち帰ります。
そして、現代のお茶の点て方に通じていると言われている「抹茶法」を記した著書『喫茶養生記』を1211年に発表します。
『喫茶養生記』にはお茶の種類や効能などが書かれており、日本でお茶を飲む習慣が根付くようになりました。
その後、栄西から「抹茶法」を引き継いだ明恵上人が、京都の栂尾(とがのお)にある高山寺や宇治でお茶の栽培を始めました。
ここが日本最古のお茶の栽培地と言われています。
京都・宇治がお茶の名産地になった室町時代〜南北朝時代
室町時代、3代目将軍の足利義満によって、宇治にある茶園が特別な待遇を受けることになりました。
これがきっかけとなり、京都の宇治はお茶の名産地として発展してきたと言います。
宇治から始まったお茶の産地は伊賀や伊勢などへじわじわと広がっていき、同時に喫茶の文化も馴染んでいきました。
この時代は武士が好んでお茶を飲んでおり、喫茶は武士のブームでした。
千利休登場で一気にお茶文化が活気付いた安土桃山時代
安土桃山時代には、茶で有名な千利休が登場します。
千利休は豪華さを削り、静かな部屋でしっぽりとお茶を飲んで楽しむ「侘茶(わび茶)」を大成させました。
これは、日本の伝統として今も受け継がれています。
千利休は織田信長や豊臣秀吉にも仕えながらお茶の良さを広め、豊臣秀吉主催の北野大茶会の茶頭役なども務めました。
さらに、弟子も育てながらお茶の発展に力を注いだとされています。
緑色のお茶が誕生した江戸時代
江戸時代に宇治の農民で茶業家であった永谷宗円が、15年の歳月をかけて、茶色から緑色の色が出せる製茶法(宇治製法)を確立させました。
この技術は今現在も受け継がれています。
この製茶法がきっかけとなり日本全国でお茶文化が親しまれるようになりました。
これまでは茶葉を煎じた茶色いお茶が市民に親しまれていましたが、製茶法で作られた緑茶は、香りも味もグッと引き出され非常に人気がありました。
江戸時代後期には、江戸の茶商・山本嘉兵衛によって、今までのお茶からより高級感のある玉露が誕生。
これも徐々に日本中に広まっていくことになりました。
急須の登場で家庭でもお茶が楽しめるようになった大正〜昭和時代
この頃になるとお茶の生産に機械が導入されるようになり、大量生産が可能になりました。
お茶は日本の輸出に大きく貢献をしていたのです。
そして「淹茶(だし茶)」と呼ばれる急須や土瓶などに茶葉を入れてお湯を注ぐ飲み方が浸透し、家庭でお茶を楽しむのが広がっていくようになっていきました。
「MATCHA」が世界でブームになった現代
その後も日本のお茶はどんどん世界に輸出されるようになりました。
抹茶も緑茶も英語表記では「Japanese Green Tea」とひとまとめにされていたこともありましたが、今は「Japanese Green Tea」と言ったら緑茶を指し、2010年ごろから抹茶は「MATCHA」として世界中に知れ渡るようになったのです。
海外のスターバックスでも抹茶フラペチーノを楽しめたり、抹茶アイスなどをはじめとしたスイーツが日本ではもちろん、世界でも楽しめるようになりました。
抹茶の飲み方の移り変わり
ここまではお茶の歴史についてご紹介しましたが、時代が変わるにつれ、お茶の楽しみ方も、どんどん変わってきました。
お茶は健康飲料だった平安時代
遣唐使によって日本にお茶が持ち込まれたこの時代は、お茶は唐で飲まれていたのと同じように、日本でも医薬品や健康飲料という感覚だったと言われています。
飲んでいたのはごく一部の貴族や僧侶のみ。一般市民には届くこともありませんでした。
しかし、天皇や貴族などの間では喫茶として、上流階級にはそのお茶文化はどんどん浸透していきました。
武士の社交でお茶が飲まれ始めた室町時代〜南北朝時代
もともと禅寺を中心に喫茶が親しまれていましたが、この時代になると一気に武士の中でお茶ブームが広まりました。
武士たちの社交にも使われたお茶は、だんだんと利き酒ならぬ利き茶をする「闘茶」という新しい楽しみ方が生まれました。
お茶の出身をあてるという、いわばゲームみたいなものです。
以前のお茶は、質がまだよくなくブツブツとした食感が残っていたため、人気が低迷。
しかし、茶葉を粉末状にしてお湯で溶かして飲む碾茶(てんちゃ)や挽茶(ひきちゃ)が広まってから、今も飲まれているような飲みやすいお茶が出来上がったのです。
お茶の香りと見た目を楽しむようになった江戸時代
急須が生まれ、これまでよりもグッと簡単にお茶が飲めるようになりました。
江戸初期のお茶の色は茶色でしたが、江戸中期に永谷宗円が生み出した、茶葉を蒸してもみ、乾かすことで良い香りときれいな緑色のお茶を作る「宇治製法」ができました。
さらにその後、「宇治製法」で作られたお茶よりも高級感のある玉露が生み出され、お茶はより鮮やかな緑色が定着し始めたのです。
一般家庭でお茶が美味しく飲めるようになった大正時代〜昭和時代
この時代になり初めて一般家庭に急須が置かれるようになりました。
家で簡単にお茶が飲めるようになったことから、市民に食事といっしょにお茶を飲む文化が根付き始めました。
外でお茶が飲めるようになった昭和後期〜平成初期(1990年代)
これまで急須で淹れたお茶を家庭で飲むのが一般的でしたが、1980年に缶のお茶が発売され、より気軽に外でもお茶を飲めるようになりました。
その後、ペットボトルでの販売や、温かいお茶も販売されるように。
今ではお茶をコンビニやスーパーで見ないところはありません。
抹茶がスイーツに使われ始めた平成中期(2000年代)
2000年代になると日本では抹茶をスイーツに用いるようになりました。
抹茶ケーキや抹茶アイスなどは、レストランやカフェ、コンビニでも気軽に抹茶を楽しむきっかけになりました。
お茶の歴史を知ることでもっと抹茶が美味しくなる
お茶は、なんども廃れながらも、細く長く発展してきた文化です。
そして、お茶が家庭に根付くようになり、抹茶が親しまれてきた時代はつい最近始まったばかりなのです。
抹茶にはまだまだたくさんの可能性があり、もっともっと発展していくことでしょう。
ぜひ、抹茶を楽しむときは、歴史を少しでも感じながら飲んでいただくことで、いつもよりさらに美味しく感じること間違いありません。
千休では抹茶を最大限楽しむこと、そして気軽に飲むことができる商品を販売しています。
今回ご紹介した歴史とともに、午後の安らぎの一杯にいかがでしょうか。もっと抹茶を好きになっていただけますように。